松の湯 番台(ばんだい)物語 東京オリンピック 昭和39年 Ⅱ

男なら「風呂屋の番台に座ってみたい

というお話の続き

 

頭の中は真っ白になってますがとにかく計算です

合計金額が出たらお伝えしてお釣りも用意して

「ハイ、いくら幾らです 何々さん」と言うと

「アンちゃん、その中からこの牛乳代引いといて」というのもざら

お客さん簡易冷蔵庫から牛乳1本取り出して指さしてます

早く言ってよ!って感じです(計算し直し)

こんなやり取りが男女の脱衣所から同時に何口もきます

 

「おお~アンちゃん、お湯ぬるいぞ、オガクズいっぱいくべて(燃やして)」

計算の途中でこんな声も浴槽から飛んできます

すぐに番台降りて釜焚き係(私の姉)に「姉ちゃんもっと炊いて!」と声掛けです

釜焚き場は冬は丁度いい温度で暖かいのですが夏は地獄です

時代的にエアコンもなければ扇風機も備えて無く

汗かきダイエットのセミナー会場みたいなもの

塩っけの多いスルメの足を舐めなめ噛んで(塩分補給)お湯みたい水をのんで

釜を炊きます

 

時代的にラジオからテレビに移行して普及率も増してきました

我が家にもテレビ(もちろんカラーではなく白黒)がやってきていて

学校での話題は前日の番組の内容で会話が進みます

その話題に着いていくには番台に座って細かい計算している場合ではなく

テレビの番組に没頭しなくてはなりません

頭の中は真っ白になったり釜場に行って真っ赤になったりテレビ見たさに

真っ青(番組が終わりはしないかと)になったりで色々です

 

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風呂屋の大きな煙突内の煤(すす)を掃除するブラシです

番組も今ほどテレビ局が多くあるわけではなく再放送もなく

一度見逃したら友達との会話に乗れないので何とかしなければなりません

強い味方がいました

私の母の姑、ばあちゃんです

「ばあちゃん、頼む!」「あいよ~」「やった~」

今日の番台と宿題を犠牲にして「名犬ラッシー」をゲットです

 

この後父親からカミナリがおって大変

 

松の湯 番台(ばんだい)物語 東京オリンピック 昭和39年

男なら「風呂屋の番台に座ってみたい」

というお話

 

生まれた時から銭湯の息子で朝から深夜まで騒がしい家でした

 

第二次世界大戦が終了して「もはや戦後ではない」という言葉が流れ

東京オリンピック(昭和の)が開催された頃 小学4年生でした

 

銭湯の毎日の開湯は夕方4時からで

一番風呂の常連さんはお決まりの隠居おじいさん

まだ各家庭に内風呂(うちぶろ)がない時代で銭湯は

リクレーションみたいなもので情報交換も含めてコミュニティの場でした

 

もう一方(ひとかた)一番風呂のご贔屓(ひいき)さんがいました

お座敷に出る前の芸者さんです

芸者さんはお座敷に出る前と終った後の一日2回入ってくれました

いいお客さんです(中には一回の人も)

 

学校から帰ると父が釜(今ならボイラー)に火入れした後の

燃料(この時は木の屑 おがくず)の補給が子供の仕事でした

いや仕事と言うよりは手伝い

私には二人の姉がいて3人で交代で燃料補給をしました

ジャンケンで順番を決め壁に下がっていた小さな黒板に

一人何回火入れしたか「正」の字を書いていきました

最初は兄弟通し競い合い自分の「正」の字が誰よりも

多くなって得意がっていましたがそのうち上の姉は中学から

高校に行く年代になり下の姉は部活に忙しくなり学校からの

帰りが遅くなりほとんど私一人の手伝いになってしましました

 

釜に燃料補給のほかにもう一つ「番台」に座って湯銭

お客さんから頂くという作業がありました

番台というのは今風に言うと会計のレジです

湯銭(ゆせん)は風呂に入る料金です

その頃番台は脱衣所の男湯と女湯の真ん中の入り口にあり

お客さんは入口から入るとすぐ湯銭を払い脱衣所に入ります

番台に座っている人は常に入口に背を向けて浴槽側を向いていました

銭湯内の全体を常に把握できるような造りにしてありました

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燃料のオガクズを運んでいた大八車の車輪です

湯銭はその時大人一人 20円か25円位だったと記憶しています

その金額に頭を洗う、洗髪すると水道料金がかさむので10円プラス

して支払って頂いたと思います

 

お客さんが銭湯に来る時間帯は一番風呂の隠居爺さん芸者さんを

除きピークは夜7時半から9時です

座っている背中側から左右から男女子供が一斉に入ってきます

この一時間半が番台人の腕の見せ所です

「大人何人で子供何人で頭洗う人何人」湯銭合計を算出しなくては!

電卓がない時代(4つ玉のソロバンか暗算で)、それもまだ小学生。

男湯女湯合わせて20畳の脱衣所が15分位でいっぱいになるほどの

スピードで入ってきます 頭の中 真っ白!! 続く

 

 

 

 

 

長い夏 台風の波状攻撃 なにもない普通に感謝しています

7月20日過ぎに梅雨が明けて今日で約80日経過

 

「いい加減にしてよ」って感じで台風が毎週末に来日

 

一号 一号がとてつもなく大きい

 

日本中が雨と風でズタズタ

 

これって温暖化せいそのもの ダヨネ

 

来週末は19号の素ざまじさ見せつけられるかも

 

私の生きてるところは日本海側の片田舎

 

家から5分で海 10分で山って場所

 

近くに川流れてるけど全長も20km位で水害も起こりにくい

 

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風も弱いから咲き乱れ


災害に見舞われた地域の方々お見舞い申し上げます

 

電気も来てるし雨は漏らない

 

水も蛇口を回せば勢いよく出る

 

ガソリンスタンドに行けば普通に給油できる

 

ATM もパスワード打ち込めばお金が出てくる

 

「普通」に感謝してます

 

台風19号「普通」の大きさで来て下さい

 

 

 

 

私の黒歴史 

お題「わたしの黒歴史」

父親が理系の頭で母親が文系でその間に生まれて

両方の性格は受け継いだみたいに思う

一つ共通しているのは「愛想がない」ということ

 

愛想がないということを突き詰めていくと

トドのつまりは「自分のことしか考えていない」という事になる

相手を思いやる 楽しくさせる 相手の立場に立って考える なんてことはしない

自分が楽しさをもらうのは当然だと思う 相手に返さない

 

「自己虫」なのだ

 

相手のこと第一に考えるなんて面倒臭い

自分のことは自分でやればぁ! 俺は知らないよ

って感じだ

それと言って他人が何もしてくれないと怒る

誰も助けてくれないと文句を言う

 

話が横道にそれるが

母親の母親(私の祖母にあたる)はかなり「愛想」のない人で

道ですれ違っても挨拶もしない 言葉もかけない 喋らない

無口なのか感情がないのかわからない人だったらしい

母親から聞いた話だ

その祖母の子、私の母親も愛想あるわけが無い

父親(私の祖父)は明治時代に役所(役場)に勤めていたくらいだから

ガチガチの堅物で寡黙で愛想があったとは思えない

その娘(わたしの母親)は愛想がないのは当然!?

 

時代がそうだったのかもしれないが

私の母親は他の人(家族を含め)を褒めたことがない

そういう光景を見たことがない

子供心に母親から褒められた記憶がない

ある時、母親に聞いてみたらこんな答えが返ってきた

「褒めるとその人はつけあがって調子にのってよくない

と教育、教えられた」 人は褒めるな!と

 

戦中派に与えられたマイナスの教え

 

それともう一つ

話をしていてひとことめにまず否定する

話の中の欠点しか指摘しない

確かに指摘事項は間違っていないが

話に潤いがない 話していて楽しくない

この次一緒にいて話したいと思わなくなってしまう

 

私の父親はかなり理系男子でクールで数字には強かった

理系男子は母親の話に出てきたように「愛想がない」の典型で

人からパワーをもらう 楽しさもらう はするがその反対はない

自分の持っているものを人に与えることはない

指先が凍る寒い日でも相手に予告なしに温かい缶コーヒーを

手元に差し出すことはない

宴会の幹事をして周りを楽しませることもない

ましてその席で酒を注いで回ることもない

手酌で飲むかコップが空になっていても人が注ぎにくるのを待っている

オモテナシもなければ場を盛り上げることもない

 

「自己虫」なのだ

 

そんな両親の下で生まれ育って私は「愛想がある」わけがない

自分で言うのもなんだが小学校の成績は悪いほうではなかった

数字も苦手ではなかったし文章を書くのも好きだった

ただ成績がいいとすべての役回りもついてくる

人前に立って説明 取り仕切る場面も与えられる

「愛想がない」のだからいわゆるコミュニケーション能力は

ゼロに近いのだ

クラスの代表として取り仕切る場面を与えられて最悪だった

おまけに夏休みの宿題は8月30日に取り掛かる性格で

「先送りの権化」だった

中身がないのに周りから持ち上げられてつじつま合わせに翻弄して

いつ内容の不備がバレるかと恐怖の連続だった

 

小学校時代が私の「黒歴史」の始まりだった

 

 

 

秋から冬へ 時間の進行は変わらない

季節の移り変わりに目をやる余裕もなく

冬、ホワイトシーズンになってしまった

4ケ月の間何をしていたのか?

身体と頭の中身の動きは自分は認識しているより

はるかに鈍くなっている

直近の記憶はすぐ途切れるし動作は考えよりズレる

手足の感覚に誤差が生じ持っているものを落とす

 

それでも時間の進行は変わらない

 

も2年前の11月に救急車で運ばれてから

翌日体の内部が一変して一部内蔵が作動しなくなって

2度と元に戻らなくなった

 

それでも時間の進行は変わらない

 

24ケ月経過して体の内部は戻ってないがさりとて

他の臓器(壊れて臓器以外)はあれから損傷なく

動いている(感謝しなければ)

黎明時 背中の真ん中(両肩甲骨の間)に

氷の柱を押し当てられたような冷たさを感じる

毎朝

それも30分ほどで回復する(感謝しなければ)

 

それでも時間の進行は変わらない

 

車も新車買って10年もすれば車検にお金がかかり

家も建ててから30年もすれば何処か雨漏りして

人間も60年もすれば体 何処か壊れる

諸行無常

 

それでも時間の進行は変わらない

 

 

 

夏の盛り

6月下旬ころから波うち際に人々が集まり出す

 

夏の始まり

 

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クルマがメインの交通手段なので宿泊も車泊(しゃはく)

 

家族中泊まっても宿泊代はタダ

 

これは金銭的にかなりサイフにやさしい

 

家族5~6人行ってもヘーキヘーキ

 

ディスカウントストアで冷凍肉をごっそり買ってもヘーキヘーキ

 

クルマの(特にワゴン)リヤゲート開けて折りタタミテーブルセットすれば

 

焼肉パーティーの出来上がり

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クルマの駐車場所が「道の駅」ならばなおさらいい

 

トイレ 洗面スペース付きで女性も安心

 

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その「道の駅」も名物・特産物コーナーがある駅ならいうことない

 

アルコール類は途中のコンビニで買ってクーラーBOXに入れておけば

 

「肴」は現地調達できる

 

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町中あげての歓迎ムードの場所なら万々歳

 

 

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酉年の夏の真っ盛り